3月 17, 2011

2006原付の旅 東京→盛岡 最後に

やっととりあえず2006年原付の旅 東京→盛岡のupが完了しました。
なんというかタイムリーな地名がどんどん出て来て改めて今回の震災の、現地のことを考えました。
もちろん今私がいる東京も決して被害がないわけではありませんが、東北に比べたら屁みたいなもんです。

今現在、個人でのボランティアは募金や物資を自治体や企業に託すことしかできないから、
心中の不安を消すように仕事する。

利己主義な買い占め、ガソリンスタンドに並ぶ都民を見て正直吐き気がする。

だからって私に何ができるかっていうと上記の募金などしかないのが本当に悔しい。

いま、現地に行っても経験がないので救助なんてできないし、逆に足手まといになる。
本当に悔しい。

食べ物のことばかりで恥ずかしいけど、三陸をはじめとする東北、北海道の海産物は本当においしい。
それがこの先何年も食べれなくなるなんて、悲しすぎる。元の漁業ができるようになるまで長い年月がかかるでしょうが、立ち直ってほしい。
そのために国には援助等惜しまないでほしい。そのために消費税があがるなんて大したことじゃない。

夏に九州周遊を計画していたけど、北に行こうと思う。また原付で。そしてまた北海道入りかな。
行って何ができるかわからないけど。

また続いて屋久島編もupしたいと思います。

2006原付の旅 東京→盛岡10

ここから場所が曖昧な写真が続きますが勘弁。
石巻を出て仙台をスルーして国道を嫌い、より海岸近くの県道を走る。上の写真はそのときのどこか。おそらく阿武隈川の河口だと思う。快晴ですなー。


そして同日。多分今回の震災で被害が大きい相馬の松川浦を過ぎたあたりかと思う上の写真。
強風で海上の機械が大変なことになっていた。


そしてこちらはこの日の最後の宿泊地福島県いわき市で寄った飲み屋のさんまの朴葉(ほうば)焼き。甘みそ仕立てで本当においしかった。カウンターで仲良くなったおっちゃんたち、元気でいてくれ。

2006原付の旅 東京→盛岡9

そして待ちに待った海の幸お食事タイム!
まずはサバのあんかけ定食。
続いて生ウニ丼!一気に食べちゃいました。二つ注文しておかみさんが「え・・・マジで?」みたいな顔をしたのが忘れられない。

本当においしかった。
あの食堂の人たち無事かな・・・・
動機が不純かもしれないけど、こんなにおいしいものを二度と食べれなくなるなんて絶対に嫌。
だから自分でできる支援は惜しみなくしていく。


2006原付の旅 東京→盛岡8

夜の県道45号線は最恐ランキングに入るくらいこわかった。漁村→山(外灯なし)→漁村→山(外灯なし)・・・の繰り返し。昼間に通ったらそりゃあもうきれいだったろうけど。

そして今この街たちが・・・と思うと心が痛い。

石巻に無事に到着して朝を迎え、ウニを食べたい私はお店が開くまで見晴らしのいい公園でぼんやり。地図で確認したところ、日和山公園。桜の樹がたくさんあって春にはお花見でにぎわうでしょう。猫もいて最高だった・・・。

今はその景観が全くと言っていいほど変わってしまっているでしょう。本当に言葉にならない。

日和山公園から見た太平洋↓

公園内にいたにゃんこたち↓


2006原付の旅 東京→盛岡7

現在、未曾有の震災が起きて今も救助活動している三陸の湾です。正確な地名はわかりません。
この日の宿を気仙沼に決めて遠野を出発。確かけっこういい時間になっていてちょっと焦っていたのを覚えてる。県道35号線を通って三陸海岸沿いを走る国道45号線を目指す。
釜石でウニ丼の誘惑につられつつ、「気仙沼でたらふく食べよう!」と思いひたすら走った。

地図を見て今回の震災地を思う。
三陸の恩恵でおいしい海産物が豊かな街ばかり。
そして三陸がゆえに、平地ではなく、漁村と山を繰り返す海岸線なんですよここは。だからこそ救助の陸路開拓も難しい。孤立してしまう。

旅の話に戻すと、気仙沼に着いたはいいけど、まずネカフェがない。気仙沼・・地名度より意外とのどかな田舎街で焦る私。そして気仙沼に着いたのは夜19時をすぎていた。。
ちょっと迷ったけど、携帯で検索して石巻ならネカフェあるということが判明。夜道は怖いけど勇気を出して、いざ石巻へ!

2006原付の旅 東京→盛岡6

up忘れていたので一応証拠写真。
盛岡行ったのは日数的に少なかったのでなんという軽装備。メットインいっぱい+バックパック背負ってますが、寝袋とかそういうのは持って行かなかったなー。おかげでネカフェで苦労した。
こちらは遠野市。カントリーサインが河童なのがかわいいです。